2003年2月17日月曜日

珊瑚集:そぞろあるき アルチュウル・ランボォ



『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

アルチュール・ランボー
原文       荷風訳
Sensation       Arthur Rimbaud
Par les soir bleur d’été, j’irais dans les sentiers,

Picoté par le blés, fouler l’herbe menue :

Rêveur, j’en sentirais la fraîcheur à mes pieds.

Je laisserai le vent baigner ma tête nue.


Je ne parlerai pas, je ne penserai rien :

Mais l’amour infini me montera dans l’âmes,

Et j’irai loin, bien loin comme un bohémien,

Par la Nature, - heureux comme avec une femme.

(Poésies)

そぞろあるき         アルチュウル・ランボォ

蒼き夏の夜や
麦の香に醉ひ野草をふみて
小みちを行かば
心はゆるみ、我足さはやかに
わがあらはなる額、
吹く風に浴(ゆあ)みすべし。


われ語らず、われ思はず、
われただ限りなき愛
魂の底に脇出るを覚ゆべし。
宿なき人の如く
いよ遠くわれは歩まん。
恋人と行く如く心うれしく
「自然」と共にわれは歩まん。



『珊瑚集』にただ一つ収録されたランボーの詩です。岩波の解説によれば、荷風がフランスにいた頃、ランボーは今日ほど有名でなく、荷風はこの詩を「ワルク の詞華集」から引用したものでランボー単独の詩集を持っていなかった可能性もあるとのこと。確かに荷風が読んだフランス文献リストを探してもランボーの詩 集は載っていません。でも荷風が選んだこのランボーの詩は、のびのびしていてなかなか良いものだと思う。ボードレールの「気持ち悪い」言葉より日本人好み じゃないかしら。

「恋人と行く如く心うれしく」なんて書いてあるので単なる「恋愛願望」の詩かと思えてしまうのですが、小林秀雄によればそれは間違っているとのことです。 小林によれば「ランボーには色情詩はあっても恋愛詩というものは一つもありません」とのこと。「彼はいつも血腥い絶対糾問者でありました。命をかけた詩作 さえ、馬鹿馬鹿しい愚考とみえた彼の眼に、恋愛とは一体どの位やりきれない汚物とみえたか、私がここで語るも愚かでありましょう。」と小林秀雄は語ります (「アルチュル・ランボオの恋愛観」)。もっと「上等の」感情を詠ったものなのであります。はい。

ちなみに林芙美子は荷風の『珊瑚集』をぼろぼろになるまで愛読したとのことです。このランボーの詩からも影響を受けなかったわけはない。下の詩は林芙美子 の『蒼馬を見たりー自序』の最初ですが、似ていると思いませんか?

  ああ二十五の女心の痛みかな!

  細々と海の色透きて見ゆる
  黍畑に立ちたり二十五の女は
  玉蜀黍よ玉蜀黍!
  かくばかり胸の痛むかな
  二十五の女は海を眺めて
  只呆然となり果てぬ。

今般出た川本三郎『林芙美子の昭和』は良書です。庶民の目から見た昭和という時代が、戦前戦後の連続性も含めて、非常によく描かれています。靖国問題の理 解にも繋がります。さすが東大法学部だけあるなあ、川本三郎。

余丁町散人 (2003.2.17)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2003年2月10日月曜日

Le Monde : おいしいポートーフ(肉と野菜の鍋)




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2003.2.10

冬になるとやっぱり鍋物ですね。フランスでもそうみたい。特別上等のフランス伝統の鍋料理の紹介です。ポートーフは散人も大好き。でも人類で最初に鍋料理を食べたのは誰かご存じですか。実に我らが祖先縄文人なのです。視点「日本文化のルーツとグローバリゼーショ」(2000/1)をお読みくだされ。


A la bonne fortune du pot-au-feu (2003.2.9)

おいしいポートーフ(肉と野菜の鍋)

ポートーフ(肉と野菜の鍋)こそフランスの美食と渾然と混ざり合わさったものである。これは元伯爵で第三身分の代表であったミラボーが「ポートーフこそが帝国の基礎である」と恒久化して以来、シンボル的価値を持つものともなっている。

この名前は、単に、アンチョビーの切り身を十字架風に並べ、種を抜いたオリーブを添え、エストラゴンとアンチョビーを焼いた肉に添えるという「ミラボー風」の盛りつけとして残っているだけではない。

名前から分かるように、ポートーフとは昔の言葉でいう「鍋」の中で料理された料理のことでフュレティエールが1691年に言ったように「朝から鍋を火にかける」のである。あの時代から、焼き物のような乾いた料理と水気のある料理、スープ、シチュー、炒め物は区別されていたのである。「ポー」というのはゾラの時代までは、料理に使う道具の名前だった。

スープと焼き物の区別は純粋に人類学的なものなのか? いやそうではない。今日に至ってもなお、赤肉の好きな人たちやポートーフのようなスープと肉や野菜が一緒に煮込んだものを作る人たちの間でその二つは区別されているのである。

「ポー」という鍋は、最初の内は自在鈎で吊されていたが、そのうちカマドの際に置かれるようになった。

鍋の中に、まるで魔法の儀式のように、肉の塊や骨を入れて煮立て、グローブを差し込んだタマネギを加え、薬草の束も加えるのだ。

鍋の中で、肉と野菜は渾然と交わり、お互いの味を吸収する。タイムや月桂樹の香りも。ポートーフは薬草抜きでは考えられないのである。

いろいろの種類の肉が必要とされる。半分脂身が入ったバラ肉や、痩せたすじ肉やゼラチン質の部分、なかでも良いのはもも肉だが、外股肉ではなくすね肉の部分がいい。また肩の部分の脂肪が少ないところやパルロンと呼ばれる二対の肩肉の隣の部分が良い。頬肉や尻尾の部分や脾臓も肉汁の色づけのために入れても良いが、三時間ほど煮てからその部分は猫にやる。

EXTRACTION DES SAVEURS

味の抽出

肉は、冷水から煮立てるべきか水が煮立ってから肉を入れるべきか? これは実に奥の深い問題である。おいしい肉汁を出そうと思えば冷水から肉を煮立てるべきであるが、煮立てている内に味がしみ出してしまうので肉が水っぽくなってしまうリスクがある。この香りの理論に基づく現象をサヴァランはオズマゾーネ現象と呼んだ。反対に肉を水が煮立ってから入れると味が濃縮するので肉の風味が良くなるのである。

一部の家庭では、牛肉の固形スープを溶いて水に入れることで、肉は水が煮立ってから入れている。そうすると肉も味が良くなり、スープも浮いた脂を取り去ると素晴らしくしっかりしたものとなる。両者の妥協点を探る方法は、スネ肉などの味がしっかりした肉は冷水から煮立てて行き、最後は挽肉用として使い、二時間ほど経ってからもっと上等の肉を加え、その肉はそのまま食べるというやり方だ。

このやり方は、ご近所のおばさんがやっているやり方だが、もっと洗練されたやり方でやってくれるのが、パリで最近流行の伝統的なレストラン「キンシー」の豪快なオーナー料理人だ。

彼のやり方には信頼が置ける。冷水から肉を煮立てはじめ、ニンジン、カブ、ネギなどの野菜を加え泡立つまで煮立て、三分の二ほど煮てから野菜を取り出し、スープの脂を除き、肉を形良く整えて小さな野菜類と肉汁と共に膀胱の袋に入れて、袋を括って締めてからさらに一時間ほどゆっくりポーチにする。

この二回に分けて加熱するポートーフはすごい技術だが、膀胱入りポートーフと呼ばれている。サヴァランのオズマゾム現象で肉の味も素晴らしく濃縮されている。これはすごい料理である。

深皿の上で膀胱が開かれると、薫り高い肉汁が噴出し、次に肉と付け合わせの野菜が出てくる。完全なる香りの調和である。

昔の偉大な料理人ブーファンの狂気のようなポートーフの思い出が今日によみがえる。これこそもう長らくダイエットとか香油とか醤油なんかに気をとられて忘れられていたものである。

この料理にはいくつかの香辛料が必須である。脊髄の味付けのための粗塩、ピクルス、マスタード、それに西洋ワサビだ。肉を食べる前に、肉汁を完全に脂を取り除いてから、カップかスープ皿に入れて供する。もし肉汁が残ったら、後でバーミセリを入れて暖め直して食べればいい。肉が残ると冷肉を使ってとてもおいしいサラダを作ることが出来るし、トマトやズッキーニや茄子などに入れて詰め物にすればおいしいし、挽肉料理にも使える。これこそが、冬の日曜日に最適の、おばあちゃんの味、出来あわせの材料で作る素敵な料理(フォルチュン・ドゥ・ポ)なのである。

Jean-Claude Ribaut

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 09.02.03

2003年2月8日土曜日

〔再録〕荷風が最後に食べた浅草のお店は?


  荷風が最後に食べた浅草のお店は?    余丁町散人、2003.2.8
「アームチェアー・デテクティブ」という言葉があります。椅子にゆったりと座ったまま現場には出かけないで推理ゲームだけを楽しむという探偵のことで、ネロ・ウルフやポワロなどのちょっと太った連中が多い。推理に必要な材料は手下が集めてくるので十分すぎるほどあり、後は優雅に「灰色の脳細胞」を働かせるだけで見事に真犯人を突き止めるのです。ホームズの小説のあら探しに人生の生き甲斐を見いだすシャーロッキアンもその「アームチェアーに座った探偵」のたぐいですが、永井荷風もこの種の楽しみの対象としてなかなかよろしいと思います。何せ研究書が山とあるので、推理する材料に困ることはありません。今回はこの「アームチェアー推理」を楽しむこととします。テーマは「荷風が浅草で最後に飯を食った店はどこか?」と言うこと。

まず定説から行きましょう。荷風ファンのバイブルである秋庭太郎の『新考永井荷風』によれば昭和34年「荷風はこの年も正月二月の両月、雨の日も雪の日も一日たりとも欠くことなく、三月一日も正午浅草に赴き、アリゾナに於いて朝昼兼帯の食事を済ませて帰る際に発病、店先で転倒、アリゾナ主人の介抱を拒絶して独り遅々として大通りまで歩みタクシーに乗って八幡町の家に帰った。この日が荷風の浅草行きの最後となった」と重々しく書かれています。『日乗』でも「三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自動車を雇い乗りて家にかへる」とあり、以降浅草の名前は出てきませんので、三月一日と言うことはほぼ間違いないところ。問題はお店の名前が書いてないことですが、秋庭太郎氏は緻密さを極めた調査によりそれは「アリゾナ」であると断定されており、それが定説となっているのです。

ところがこの定説に疑問を提起する事件が起こりました。実に映画監督の大御所新藤兼人が平成4年になって発表したものですが、荷風が浅草で最後に食事をしたのは「アリゾナ」ではなく蕎麦屋の「尾張屋本店」ではなかったかという疑問です(『老人読書日記』にも書かれています)。当時荷風を追いかけ回していたアマチュア写真家井沢昭彦氏や尾張屋の女主人の証言にとても現実感があり、荷風ファンの間に大きな衝撃を与えました。それを読んだ荷風研究家の松本哉氏はさっそく写真家の井沢昭彦氏や尾張屋の女主人に会われ、荷風が死ぬ一ヶ月ぐらい前に尾張屋でかしわ南蛮を食べてトイレでしりもちをついたとの重要証言を確認され、(新藤兼人氏は)「アリゾナを必ずしも無視しているわけではないが、尾張屋のトイレに何か真実の匂いを嗅ぎつけているのである」と新藤兼人説を支持されているのです(『永井荷風のひとり暮らし』)。

でも昭和34年の春先の出来事であり、今となっては確かめようがないところです。その後、樋口修吉氏もこの件についてアリゾナの主人に再度インタビューするなど確認されていますが「そんな本家争いのような論争をしても何も生み出さないと悟りきっている」アリゾナ主人の態度を紹介され、結論は出して居られません(「荷風と東京の戦後」(東京人1998/9)。白黒つけるのも野暮という気もいたします。

でも散人が一つどうしても納得がいかなかったことがあります。それが気になって仕方がなかったのですが、それは尾張屋の「かしわ南蛮」の量なのです。一度お食べになったら分かると思いますが、とても上品な盛りつけで、はっきり言って小生には少なかった。大食いの荷風が果たしてこれで満足したのだろうかと言うことです。荷風はアリゾナでは毎日、「タイシチューとグラタン、それにお銚子が一本。これが三ヶ月ぐらい続くと、今度はチキンとレバーの煮込みとカレーライス、そしてビール大瓶」を食べていたのですから(樋口修吉)、かしわ南蛮とは落差がありすぎる。でも荷風がほぼ毎日のように尾張屋でかしわ南蛮を食べていたことは、実際写真まであり、全く間違いのないところです。どう考えればいいのでしょうか。晩年は食が細くなったのかも知れませんが、それでも浅草通いを止めた後も、毎日近所の大衆食堂「大黒家」ではカツ丼と日本酒を食べています(あそこのカツ丼は結構ボリュームあって小生でも食べきれなかったぐらいです)。

アームチェアーに座っていろいろ書物を読みながら考えていたのですが、ある日突然重要な事実に気が付きました。松本哉氏が聞いた尾張屋女将の証言では、荷風は「毎日毎日、夏も冬も、昼過ぎにお見えになった」と述べられている点です。荷風はもっと早く朝昼兼の食事をとっていたのではなかったか? 樋口修吉は、荷風がアリゾナに顔を出すのは毎日11時半頃、時には11時前にやってきたという証言を得ています。アリゾナには昼前、尾張屋には昼過ぎと言うことなのです。荷風は食堂のハシゴをしていたのだ! 新藤兼人は写真家井沢昭彦氏の言として「荷風はアリゾナ食堂にはいる。外で待っているとまもなく出てくる。・・・荷風は逃げるように雷門を過ぎて田原町方面に行く。そして尾張屋に入った」と引用されているではないですか。このとき新藤兼人は荷風がアリゾナに入ったのは一時避難のためだろうとされていますが、そうではなくちゃんと食事をするために入ったと考えれば、すべて説明が付く。

さて昭和34年3月1日の荷風の足どりを再現してみましょう。こういうことじゃないでしょうか。

1)まず正午前(11時半)に荷風はいつも通りアリゾナにはいる。そこで食事をする。
2)食事の後、アリゾナを出る時に転倒。主人の介抱を断り荷風は大通りの方に遅々と歩いてゆく。
3)荷風は依然として遅々とした足どりで、いつも通り雷門から田原町方面に向かい、尾張屋本店にたどり着く。そこでデザートがわりにかしわ南蛮を食べる。
4)かしわ南蛮を食べた後、トイレに入って尻餅。尾張屋主人に助けられる。
5)大通りでタクシーを拾って八幡に帰る。

これでほぼすべての証言と矛盾しないこととなります。アリゾナ主人が荷風に大通りまでは付いては行かなかったが後ろからタクシーに乗るのを見たと証言していることだけが、ちょっと気になる点ですが、主人の記憶違いなのか、或いは荷風はタクシーで尾張屋まで乗り付けたと考えればいいでしょう。

荷風は頑固で執着する性格であり、神社のお神籤を引いても大吉が出るまで何度も引いたといわれています。普通アリゾナで転倒したらそのまま家に帰るものなのでしょうが、いつもの習慣に固執して尾張屋にまわったのでしょう。或いはひっくり返ったまま家に帰れば験が悪いと考えたのかも知れません。とにかく同じ日に二回も連続して無様な格好をさらしたことで、さすがに格好が悪いと思ったのでしょう。それ以来、荷風は二度と浅草には行かず、以後、近所の大黒家で甘いカツ丼を食べることになるのです。

2003年2月6日木曜日

Le Monde : バルバラの教えを聴こう

2003.2.6
死後5年、バルバラの歌が大いに注目され、売れ続けているとのこと。もうちょっと低音だったらもっと良いと思うんだけれど、これは趣味の問題で、深く訴えるものがある偉大な歌手ですね。
 


Ecouter la leçon de Barbara (2003.2.6)
バルバラの教えを聴こう


セルジュ・ウローが、この政治的関心の高く、傷ついた一人の歌手の人生を舞台化した。死後5年経って、彼女の歌はいまだに世の中に感動を与える。

バルバラは1997年11月24日、パリで死んだ。呼吸器系と消化系の炎症であった。67歳だった。彼女は死に、その前も90年代に入っては疲れ切って喉を痛めていたが、そのことは彼女がいまだにアイドル的な存在であることには少しも影響していない。今日、彼女の歌は、故ブレルやブラッサンスのものよりも多く歌われているのである。

彼女のサイト(lesamisdebarbara.free.fr)ではバルバラの友人達が彼女に関するすべての事柄を公開している。ダミア、イヴォンヌ・ジョルジュ、エディット・ピアフ、マリアンヌ・オズワルドから彼女に繋がるそうそうたる系譜図まで掲げている。セルジュ・ウローは彼の新しい芝居にバルバラを扱う。「お上品な文化はシャンソンを嫌う。なぜならシャンソンは直接的だからだ」とこの喜劇役者は言う。

彼女はいつも黒い服を着て熱狂的なファンを集めた。晩年は四方を壁に囲まれた庭のある修道院風の引きこもった。死後5年経った今、なぜバルバラの教訓的な歌を聴かねばならないのか? どうして今でもこのアンチ・ポップのスターはこれほどまでに人気があるのか? まずフランスのシャンソンは長い歴史があることを挙げねばならない。黒い服に身を固めたバルバラは昔から体験されたシャンソンを代表する宗教的存在であるのだ。

そう「体験されたシャンソン」なのだ。彼女は惨めさを歌い、よろこびを歌い、時代を歌う。彼女は有名な人気歌手ではあったが同時に政治的参加をする歌手でもあった。平和主義者で、エイズ撲滅運動の運動家でもあり、ミッテランの支持者でもあった。でもバルバラは代弁者、先人の意向を巧みに伝える人として仕事を始めていることが重要だ。1950年代には、彼女はピアフの歌をなぞりながら作詞しているのだ。

バルバラは激しく仕事をして、膨大なレパートリーを増やした。レオン・サンロフ、アンリ・フラグソン、モーリス・キュヴリエ、ポール・マリニエなどの歌である。若い作詞家の歌も多く歌った。ジャック・ブレル、ジョルジュ・ブラッサンス、レオ・フェレ、モーリス・ヴァダラン、ルネ・レヴェックなどだ。1960年には「バルバラ、ブラッサンスを歌う」でグランプリを獲得している。次にブレルの歌で。

1958年には78回転や、45回転のレコードからはじめ、以来多くの歌を発表する。

若い世代がバルバラから学ぶことの第一のものは、彼女の歌は決してゼロから作り上げたものではなく、ベースにあるしっかりした芸術的文化の上に作り上げられたものだということである。バルバラが古い歌を歌う時、それは決して世代を超える共感を求めてではなく、彼女の歌に対する愛と博識がそうさせているのである。

「世に認められない才能なぞはない」とバルバラは1981年インタビューで語った。「無理をしてデビューしようと苦しんだりせよと言うことではなく、うちに秘められた才能がないのに努力してもしようがないということ。これは宗教みたいなものでなければいけない。私より歌のうまい人はいるが、歌で人に何かを与えなければ意味がない」と。彼女は霊的なまでに魅惑的で、いろいろな伝説の持ち主であるが、一つ確かなことは、彼女は、彼女自身も、くるしみも悲嘆も、惜しみなく人に与えたということである。

心理学者がいうように、彼女は悲惨な状況を大きく強調し、何とかしようとする独特の素質に優れていた。日常的なことを取り上げ、差別の問題と戦った。ラシズムとも戦った。薬害エイズ問題とも戦った。

彼女は、長く内に隠していた自分自身の秘密も、徐々に語るようになる。ユダヤ人でありナチの恐怖におびえたこと、幼い時に父親に強姦されたこと、戦争のこと等々。

彼女の歌を聴く時、人はジェノサイドと火葬を思い起こすことになる。三年がかりで作詞した幼年期の心の傷を訴える歌もある。

バルバラは今、シルヴィー・ヴァルタンなどのアメリカン・ロックと共に若い世代に受け入れられている。しかしバルバラはそこに留まるものではない。彼女の歌は、トゥストやヌーベルバーグのMGの軽薄さに、青春に生きるくるしみ、愛が成就できないロマンチックな悲劇的なものと映る10代のくるしみを付け加えるものだ。若者の通過儀礼でもある。彼女の苦しみに満ちた人生は、彼女が訴える一枚板ではない多様な希望を抱く「若者達」に常に支持されるのである。

Véronique Mortaigne

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 06.02.03


2003年2月5日水曜日

瑛子姉のこと

余丁町散人、2003.2.5


一番上の姉、服部(橋本)瑛子姉が亡くなってからちょうど5年になる。1998年2月5日、木曜日夜9時頃電話で連絡を受けた。その前の日曜日に名古屋に見舞いに行ったばかりだった。見舞いに行った時は、まだ意識もはっきりしており、2時間ばかり話が出来た。手を握ると「とても暖かい」と言って放さず、ずっと握り続けていた。

瑛子姉が生まれたのは、昭和8年11月16日、父幸次は25歳、母寿賀は18歳の時だった。その年の2月、日本は国際連盟を脱退。世界恐慌のさなか、日本は軍国主義で破滅に向かって突き進んでいる時ではあったが、父は独立したばかりであったし、大阪の下町での新婚家庭はそれなりに楽しかったようだ。空襲の激化と共に一家は西宮の別宅に疎開。そこで終戦を迎える。瑛子姉は11歳だった。翌年末っ子の尚幸が生まれ、瑛子姉はたまたま近所にある学校と言うことで、神戸女学院中等部に入学。以来昭和31年神戸女学院大学英文科を卒業するまで同じ学校にいた。神戸女学院は阪神間ではピカイチの才媛学校であるが、当初はそういう意識で入学したのではなく、あくまでも近くにあったからというのが理由だったと聞いた。下の二人の姉も全く同じコースを歩むこととなる。

この神戸女学院という学校は、アメリカのミッションスクールでもあり、学生も阪神間の比較的裕福な家庭の娘が多く、一般の公立学校とは相当雰囲気が異なった。当時から、土曜日は休日、日曜日には礼拝があり、服装も制服はなく私服だった。思春期の女子学生は無理をしてでも服装で自己主張をし、毎日同じ服で登校するとちょっと引け目を感じるような雰囲気だったらしい。大阪からやって来たばかりの両親にはそのへんが理解できず、瑛子姉は父親が職業柄入手した「上等の」羅紗で作ったセーラー服で通学した。セーラー服で通学した質実剛健な生徒は、終戦直後の当時でも学年で瑛子姉ともう一人いただけだったと瑛子姉は言っていた。その他、ミッションスクールの特別のルールがいろいろあり、富山県と和歌山県生まれの両親には理解できない点が多かったようで、間に立った瑛子姉はそうとう苦労したようだ。

瑛子姉は努力家でしかも抜群の秀才だった。兄姉の中では一番IQが高かった。数学パズルとかが好きで、読む本の量も半端じゃなかった。漱石全集を自分の小遣いで買いそろえたり、ディッケンズなどの英文学はたいてい翻訳で買いそろえていた。私が小さい時に読んだ本の多くは瑛子姉の買ったものであり、今でも私がフランス文学より英文学に親近感を覚えるのは、その影響なのであろう。ピアノはほとんどプロ級で、ラジオにも出演した。家のピアノがボロだと言うことが彼女の悩みでもあり、またこれで両親ともめた。卒業後、当時としては珍しく職業婦人となり(財)関西経済連盟で事務の仕事をした。非常に有能な人だったが、女性の社会的地位は当時はまだまだ低く、学生時代には家庭と学校の文化ギャップの問題もあり、とてもストレスが高かったように見えた。結婚したのは私が12歳の時だったが、そこで素晴らしい家族に恵まれることとなり、瑛子姉は一転して、目に見えて温和になった。彼女にとって服部奎吾氏との結婚は生涯で最良の選択であったと思う。彼女はとても幸せな生活を送ることになる。

私は彼女とは年も離れておったこともあり、直接的な関係よりもむしろ間接的なつながりが大きいと思う。彼女の蔵書で人格を形成したと言っていいし、最近まで瑛子姉が卒論を書く時に使っていたヘルメスのタイプライターを使用していた。今使っている英英辞書も瑛子姉のオックスフォード・コンサイスだ。彼女の1953年付の署名が入っている。

5年前、最後に瑛子姉を見舞った時、広島に瑛子姉を訪問した時の話などをしたが、彼女は「新婚時代、特に広島で生活していた時が一番幸せだった」といった。この「一番」という言葉に引っかかったが、或いは単に「とても」という意味だったのかも知れない。別れ際に「尚幸は、もっと痩せなければいけない」と過体重を注意された。

以来節制して少しだけだが体重を減らしている。


〔注〕瑛子姉:服部瑛子(旧姓橋本)1933.11.16 - 1998.2.5

2003年2月4日火曜日

Le Monde : 経営者(パトロン)と労働(トラヴァイユ)

2003.2.4
「左のルモンド」の面目躍如という論説です。非常に基本的な命題について、敵ながらあっぱれと言えるぐらい、鋭い指摘です。経済社会で人は何のために働き、経済は何のために豊かになるのか。手段を求めて目的をないがしろにしてはいけないと言うもの。経済学的にケチを付けると、動態的(長期的)に考えなければいけないよ、と言うところでしょうが、まあそれまでには死んでしまうと言われればその通りだし・・・。


par Pierre Georges
Patron, travail (2003.2.4)

経営者(パトロン)と労働(トラヴァイユ)

フランス語というのは、社会交渉に於いては本当に恐るべき言語である。二つの言葉を取り上げてみよう。簡単な、現在までしょちゅう使われている、現在もっとも緊急案件である年金引退問題で頻繁に使われている二つの言葉である。

それは「経営者(パトロン)」と「労働(トラヴァイユ)」という言葉だ。今更言葉の意味や用法について説明する必要がないように見える。経営者(パトロン)とは、現代語では、指導者とか、企業家とか、社長とか、上司とか、職人の間では親方などの意味で使われる。ただ古典的な辞書では、パトロンという言葉はラテン語の「パトロヌス」から來ていて、その語源は「パーテル」といい、「父親」という意味であったと書いてあることについて深く考える必要があろう。「保護者」という感覚と「権威」という感覚が混じったものなのである。

しかし「パトロン」には別の意味もある。忘れかかっている言葉であるが、お菓子作りや絨毯製造で使われる意味で、ちょっと古くさいが、同時に非常に現代的でもある意味だ。「型紙」という意味で使われるのである。尊敬すべき、後に続くべきモデルとしてのパトロン(型紙)である。

さて、今度は労働(トラヴァイユ)に移ろう。すべての辞書の編者はこの労働という言葉の説明に多大の労力をかけている。どの辞書でも、労働という言葉は、ラテン語の「トリパリウム」という恐るべき拷問器具から発した、苦痛と呻きの意味を強く持つ言葉であると説明している。用法として、中世ではこの言葉が拷問という意味で使われたとか、近代においても徒弟達がヴァイオリン製作に苦しい労働をするとか、オペラ座では踊り子達が踊って死ぬほど疲れるとかである。

笑ってはいけない。今は深刻な時期なのである。現在繰り広げられている政府と労働組合の間での年金・退職問題での議論を聞くと、この辞書の言葉の定義の重要性が分かる。もし経営者(パトロン)が、字引にあるように聖人アイコンではなく、人間性からの尊敬されず、権威もなく、模範ともならないとしたらどうだろうか。パトロンが規範とするべきモデルからかけ離れていたとしたらどうだろうか。もし、いつもいつも「もっと働け、もっと長く働け、さもないとえらいことになるぞ」と繰り返すだけで、そのえらいことと言うのが労働者にとってのえらいことなのに、労働の価値を貶めることばかり言っていたら、誰も聞く耳を持たないではないか。社会計画とか企業の大規模な再配置とかいって、労働(トラヴァイユ)の尊敬すべき価値を地に落とし、それに付属して労働時間と労働期間を長くしろと言うばかりでは、いったいどうなるのか。

語源学は恐るべきぐらいに頑固である。どんな辞書にも労働とその価値と美徳について、それはそれは偉大なものだと書いてある。いまの時代は、価値という言葉を使う場合、株式市場の価値というだけで労働の価値を無視している。それがすべてのぎくしゃくをよんでいる。労働(トラヴァイユ)という言葉の意味の切り下げが進んだことが悪い。

・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 04.02.03